復帰摂理歴史の真実

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統一王国時代 (下) <トップ> 神殿崩壊の意味するもの

■ 第二章 第二節 イスラエル12支族
     d. 王国の分裂と滅亡


1. 王国の分裂

 (1) 王国の南北分裂

  @ 北のヤロブアムと南のレハブアム

 ソロモン王の時代、有能さを評価されて労役の監督に任命されていたヤロブアムというエフライム人がいました。ヤロブアムは、あるとき預言者アヒヤによって北イスラエル十部族の王となると告げられます。そのため、彼はソロモン王に命をねらわれたため、エジプトに逃れました。
 ソロモンの死後、その息子レハブアムが王となりました。この王位継承は南のユダにおいては支障なく承認されたが、北の十部族はこれを簡単には認めませんでした。

  A 重労働と重税のため統一王国は分裂

 北の十部族は、エジプトに亡命していたヤロブアムを呼び戻して自分たちの代表とし、レハブアムに陳情します。その内容は、ソロモン王の在位中から民に課せられている重労働と重税を軽くしてほしいというものでした。
 レハブアムは、3日後の返事を約束すると、彼はまず存命中の父ソロモンに仕えていた長老たちに相談し、民を厚遇すべきとの助言を得ました。ところが、彼はこの助言をしりぞけ、彼に仕えていた若者たちに相談します。すると彼らは、民を力づくで抑えつけるべきだと忠告しました。レハブアムはこの声に従ったのです。
 3日後、今までより厳しい重労働と重税を課すと宣告された北イスラエル十部族は、レハブアムを見限り、ヤロブアムを王として統一王朝からの離脱を宣言したのです。
 こうしてレハムアブ王の時代に王国は北のイスラエル王国南のユダ王国に分裂してしまいます。



 (2) 北朝イスラエル

  @ 北イスラエルを滅亡させたヤロブアムの罪

 北イスラエル十部族の王位に就いたヤロブアムは、まずシケム、次いでペヌエルを築き直して都を置きました。彼はその後、さらにティルツァに遷都します。
 ヤロブアムは、契約の箱が安置されたエルサレム神殿に多くの人々が巡礼することで、民の心が自分の王国から離れ、その安定が脅かされると感じました。そこで自国の北端のダンと南端のベテルに聖所を築き、そこに「金の子牛」をつくって置いたのです(列王紀上12章25節〜30節)。このことは 「ヤロブアムの罪」 といわれ、のちの北イスラエル滅亡の原因とされています。
 さらに彼は、王国各地に聖所を建て、祭司職を受け継ぐレビ人の子孫以外から祭司を任命したのです。また、祭日を独自に定めたのです
 このようなヤロブアムに対し、かつて王位に就くことを告げた預言者アヒヤは、王朝の断絶を預言します。その言葉どおり、ヤロブアム王朝はわずか二代で滅びてしまいます。
 ところで、一方のレハブアムは、武力によるイスラエル再統一をもくろむものの、預言者シェマヤの警告によってこれを断念します。さらにエジプトの王シシャクによる侵攻に遭い、神殿や宮殿の宝物を奪い取られてしまうのです。レハブアムとヤロブアムとの間には、その生涯を通じて戦いが絶えませんでした。

<参照>
 預言者アヒヤのヤロブアム家に対するさばきの宣告
 「主は正しい」とへりくだったレハブアム

  A 不義と堕落と腐敗の王国

 イスラエル王国イエフ王朝3代目の王ヤロブアム2世の時代、北の大国アッシリアの影響力が一時衰退したのに乗じて、北イスラエル王国は失っていた領土を回復し、大いに繁栄しました。王国は活気にあふれているかのように見えましたが、この時代に活躍した預言者アモスホセアの目には、驚くべき不義と堕落と腐敗の国と映りました。
 アモスは、ユダ王国のテコア出身の預言者です。彼が目にした当時の社会には、大邸宅に住み、贅沢三昧の日々を送る一部の特権階級と、その一方で、住む家もなく飢餓に苦しむ貧者の姿とがありました。強者が弱者を虐げ、賄賂によって裁判にも不正がはびこっていたのです。彼はこうした社会の不義不正を徹底的に糾弾し、イスラエル王国に対する神の審判を告知しました。
 預言者ホセアは、ヤロブアム2世時代の後期に活動を開始しました。ヤロブアム2世の死後、イスラエル王国は一転して滅亡への道を転げ落ちはじめるのです。この政治的混乱のなかで、人々はカナンの豊饒神バアルへの崇拝に走っていました。これをホセアは、誘惑に負けて愛人 (バアル) を追いかける 「淫行」 として告発しました。彼はまた、大国の間で右往左往する王国の外交政策を厳しく批判したのです。

  B 失われた10支族

 預言者ホセアは、イスラエル王国の外交政策を次のように批判しました。
 「エフライム(イスラエル王国)は鳩のようだ。愚かで悟りがない。エジプトに助けを求めるかと思えば、アッシリアに頼っていく」と。
 そのイスラエル王国の繁栄も、ヤロブアム2世の死とともに終わりを告げたのです。西方に進出を始めたアッシリアと、南の大国エジプトのはざまで、政変が相次ぎました。
 イスラエル王国最後の王位に就いたのは、前王ペカを暗殺したホシェアでした。ホシェアは、アッシリアのティグラト・ピレセル3世の後継者シャルマネセル5世が攻めてきたとき、彼に服従して貢ぎ物を納めたが、その後、謀反を企て、エジプトの王に使節を派遣したのです。同時に、アッシリアへの毎年の奉納を中止してしまいます。
 これを知ったアッシリアの王は、ホシェアをとらえて収監します。3年に及ぶアッシリア軍の包囲の末、BC722年首都サマリアは陥落。住民はアッシリアにとらえられて移住させられ、サマリアの地には、アッシリアに征服された別の民族が移り住みました。
 こうしてイスラエル王国は滅び、北の十部族はいわゆる “失われた10支族” として、歴史の舞台から永遠に姿を消すことになるのです。
 『旧約聖書』 の 「列王紀」 は、北王国滅亡の理由を、イスラエルの神を捨てて異教の神々を崇拝したこと、さらに預言者たちの警告に耳を傾けなかったことにみています。



 (3) 南朝ユダ

  @ アハズ王とアッシリアに併合されるイスラエル王国

 イスラエル王国の末期、王ペカの時代のことである。ペカは、アラム王レツィンと反アッシリア同盟を組み、ユダ王国のアハズ王にもこれに加わるよう求めました。アハズがこれを拒否すると、両王はアハズを退位させて傀儡の王を立てるべく、エルサレムの包囲攻撃を開始したのです。これが「シリア・エフライム戦争」と呼ばれる戦いです。この知らせに、ユダ王国は激しく動揺しました。
 そんなとき、アハズ王の前に預言者イザヤが現れて、彼はアハズに、「彼らの企みは実らない、恐れるな」 との神の言葉を告げました。そして何よりも神を信じ、神に救済のしるしを求めるよう忠告したのです。
 このイザヤの忠告にもかかわらず、アハズはアッシリアの王ティグラト・ピレセル3世に貢ぎ物を送り、彼に援軍を求めたのです。アッシリア王は、これに応えてただちにアラムの町ダマスコとイスラエル王国を攻撃しました。
 アッシリアの攻撃によってダマスコは征服され、イスラエル王国も領土の大半がアッシリアに併合され、わずかに首都サマリアの中心部を統治するだけの国となりました。イスラエル王国は、その11年後に滅亡してしまうのです。この出来事の結果、ユダヤ王国もアッシリアの強い影響下に置かれるようになったのです。

  A アッシリアへの忠誠によるユダ王国の衰退

 王アハズは、アッシリアへの忠誠を示すため、率先して同国の宗教祭儀を国内に導入しました。ダマスコにいるティグラト・ピレセル3世を表敬訪問した際に見た祭壇とそっくり同じものをエルサレム神殿につくらせ、これに供犠を捧げさせたといいます
 このようにイスラエル王国が混迷を深めていくのと同時に、南のユダ王国にも偽善と不正がはびこっていたのです。
 イザヤは、イスラエル王国の預言者ホセアと同時代に、ユダ王国で活躍した預言者です。彼は、一部の人々に富が集中し、社会的弱者が虐げられているユダ王国の現実を糾弾しました。イザヤはまた、形骸化した宗教祭儀にも批判の矛先を向けたのです。どれほど多くのいけにえを捧げ、祈りを繰り返しても、それが神に届くことはありません。行うべきは祭儀ではなく 「義と公正」 であり、虐げられた者たちを保護することなのです。悔い改めようとしないイスラエルの民を処罰するために、強大な民アッシリアが神の 「怒りの鞭」 として振り下ろされるだろうと語るイザヤは、イスラエルの民族が経験しつつある歴史的出来事のなかに、神の意志を見いだしたのでした。
 王国の堕落を批判する一方で、イザヤは希望を語り、ユダ王国のみならず全世界の平和を希求する理想の王の時代が到来することを告げたのです。このような “理想の王の待望” は 「メシア預言」 と呼ばれ、のちのキリスト教へと受け継がれていったのです。

  B アッシリアに占領されるユダ王国

 アハズ王の跡を継いでユダ王国の王となったのは、ヒゼキヤである。その治世6年目には、イスラエル王国の首都サマリアが、アッシリアの約3年に及ぶ包囲の末に陥落します。このことは、隣国ユダを治めるヒゼキヤにとって、決して他人事ではありませんでした。
 ヒゼキヤは、石柱やアシュラ像などの異教の崇拝物を打ち壊す宗教改革を実施した。その結果、彼は 「ユダのすべての王のなかで、彼のような王はほかにいなかった」 と、高く評価されています。
 また彼は、首都エルサレムが包囲されたときに備え、ギホンの泉の水を城内に引き入れるために数百メートルに及ぶ水道を掘削しました。この水路は、今日まで残っています。
 ヒゼキヤ王は当初、父アハズの政策を継いでアッシリアへの忠誠を保っていましたが、預言者イザヤの反対にもかかわらず、サルゴン2世が没した際の混乱に乗じてエジプトに支援を求め、アッシリアに反抗します。
 しかし、サルゴン2世の跡を継いだアッシリア王センナケリブは、これを見て大軍をパレスチナに派遣。ユダ王国の町々は占領され、住民はアッシリアに連行されました。そしてヒゼキヤ自身は 「籠の鳥のように」 エルサレムに閉じ込められてしまいます

  C 預言者イザヤのとりなしと神の言葉

 アッシリア軍の将軍ラブ・シャケは、ヒゼキヤ王に降伏を迫りました。エジプトの将軍を頼りにしても、エジプトのファラオ (王) は、あてにできません。「イスラエルの神の命令によって、エルサレムを滅ぼしにきた」 と豪語する将軍ラブ・シャケは、城壁の上で聞いている民にもわかるように、ユダ王国の言葉で語りかけたのです。
 「ヒゼキヤにだまされるな。彼には、お前たちを私の手から救い出すことはできない」。
 ヒゼキヤ王はこれを聞くと、衣を裂き、粗布をまとって神殿に赴きました。そして預言者イザヤのもとに使者を遣わし、彼に神へのとりなしを懇願したのです。これにイザヤは、「アッシリアの王は来た道を引き返し、この都に入城することはない。私はこの都を守り抜いて救う」 という神の言葉を告知しました。すると、イザヤの預言どおり、夜中に神の御使いが現れ、敵兵185,000人を討ったといいます。アッシリア王センナケリブは、包囲を解除して退却しました。このエルサレムの奇跡的な解放は、神の都エルサレムの不敗信仰を高めることとなったのです。ちなみに、センナケリブ王は、アッシリアのニネベに帰国したのち、家臣の手によって暗殺されています。
 アッシリア軍の攻撃を 「神の鞭」 と呼んだイザヤは、おごり高ぶるアッシリアには神の審判が下りるとも預言しました。はたして、絶大な力を振るった同国は紀元前7世紀末、歴史の舞台から姿を消すことになるのです。

  D ヨシヤ王の版図回復と宗教改革

 古代西アジアのほぼ全域をその手中に収めたアッシリア帝国でしたが、紀元前7世紀後半になると急速に瓦解しはじめます。
 このような時代にユダ王国の王となったのが、ヨシヤでした。その父アモンが家臣たちの謀反によって暗殺された際、「地の民」 と呼ばれる地方の有力者たちが謀反者たちを即座に掃討し、そのときわずか8歳だったヨシヤを即位させたのです。
 ヨシヤ王の時代は、ユダ王国にとって最後の黄金期となりました。彼は、アッシリア帝国が勢力を衰退させたことに乗じて、ユダ王国の領土を旧イスラエル王国の版図を含む地域にまで回復させたのです。
 ヨシヤ王の在位18年目に、エルサレム神殿を修理していたときのこと、大祭司ヒルキヤによって、神殿内で 「律法の書」 なるものが発見されました。この書は、現在の 『申命記』 の一部であると考えられています。
 ヨシヤは、祭司や預言者、すべての民と共に神殿に上り、この 「律法の書」 のすべての言葉を彼らに読み聞かせました。そして神の前で契約を結び、神に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして神の戒めと定めと掟を守り、この書に記されていた言葉を実行することを誓ったのです。民も皆、この契約に加わりました。

  E ヨシヤ王の非業の死と王国の衰退

 ヨシヤ王と民が、神の前で契約を結んだことをきっかけに、大規模な宗教改革が行われました。エルサレム神殿からあらゆる異教の偶像を取り除き、さらにユダ王国の町々にあった地方聖所も取り壊した。こうして、すべての宗教祭儀がエルサレム神殿に集中化された。ヨシヤ王はまた、長きにわたって行われていなかったイスラエルの民の出エジプトを記念する過越祭を復活させたといいます。
 ヨシヤ王のもとで、かつてのダビデ・ソロモン時代以来の繁栄を遂げたユダ王国でしたが、その挫折は実にあっけない形で訪れたのです。それは、アッシリアに代わって新たに西アジアの覇者として登場したバビロニアが、アッシリア攻撃を開始したことに始まります。紀元前612年、アッシリアの首都ニネベが陥落し、アッシリア軍の残党は、北シリアで最後の抵抗を続けていました。
 こうした事態に脅威を覚えたエジプト王ネコ2世は、アッシリアに加勢しようとパレスチナを北進しました。ヨシヤ王は、エジプトがアッシリアに加勢することはユダ王国にとって脅威になると判断し、エジプト軍の北上をメギド近郊で阻止しようとしたのです。しかし、ヨシヤ王はこのメギドでの戦いで戦死してしまいます。在位31年目のことでした。
 こうして、ヨシア王による改革の志なかばにして、王の非業の死という形で終わりを迎えたのです。王の死後、ユダ王国は滅亡に向かって歩みを加速させていくことになります。

  F 二回にわたるバビロニア捕囚

 ヨシア王の死後、息子ヨアハズが王位に就きました。ところがそのわずか3ヶ月後、エジプト王ネコ2世は彼を廃し、弟のヨヤキムを代わりに王位に就けて傀儡政権を樹立したのです。
 その後、ネブカドネツァル率いるバビロニアがカルケミシュでエジプト軍を撃破し、西方に進出。ヨヤキムはネブカドネツァルに服するが、3年後に反旗を翻します。しかし、首都エルサレムはたちまち包囲され、ヨヤキムはそのなかで死んでしまいます。
 次のヨヤキン王も、反バビロニア政策を継承しました。しかし、わずか3ヶ月でネブカドネツァルに屈し、エルサレムの有力者たちとともにバビロニアに強制連行されます (第1回バビロニア捕囚)。
 ネブカドネツァルは、ヨヤキンに代わってゼデキヤを王位に就けたのですが、彼ものちにバビロニアに反抗し、エルサレムは約2年に及ぶ包囲の末に陥落しました。ゼデキヤは目をえぐられて連れ去られました。神殿は略奪されて火が放たれ、エルサレムの指導者たちは連行されたのです (第2回バビロニア捕囚)。こうしてダビデ以来のユダ王国は幕を閉じたのです。

<参照>
 バビロン捕囚とエルサレム陥落

  G イスラエルの民をつなぐもの

 紀元前597年、ヨヤキン王を含めた1万人ほどの政治・宗教指導者たちがバビロニアに連行されました (第一回バビロニア捕囚)。その10年後、首都エルサレムがバビロニア軍によって陥落し、ダビデ以来ほぼ400年にわたって続いたユダ王国が滅亡したのです。2回目の捕囚が行われ、その後、さらに800人ほどの人々がバビロンに送られる第3回捕囚が行われました。
 バビロニアは、捕囚民を特定の村落にまとめて入植させました。彼らには限られた自由が認められ、長老を中心とする生活共同体を営むことが許されたのです。また、かつてのユダ王国の領土をそのまま放置し、そこに異民族を入植させませんでした。これらが幸いして、イスラエルの民は民族的な連帯を保つことができたのです
 バビロニア捕囚は、古代イスラエルの宗教にとって決定的な意義を有しました。国と土地を失った民は、ただひとつ宗教によって、民族としての同一性を保つことができたのです
 王国の滅亡と神殿の崩壊は、背信に対する神からの審判であるとの神学的な意味づけがなされ、王国滅亡へと至るイスラエルの歴史が編まれ、預言者たちの言葉が収集・編纂されました。また、割礼、安息日、食物規定などの儀礼とともに、神殿祭儀を伴わない礼拝形式が発達したのです。

<なお、このページは「完全版 図説 聖書の世界(前ページ参照)」から引用しています。>



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